1995年1月。私はTOEFLを受けました。4回目の挑戦です。当初の目標通り、秋から留学するには、今回のテストで大学側が要求する基準点をクリアしなければいけません。文字通りのラストチャンスでした。

 

約2ヵ月後、スコアシートが送られてきました。大学受験の合格通知を見るような気持ちで、久しぶりに緊張しました。そして、その結果ですが・・・

 

スコアは577。(当時のTOEFLの点数方法は現在と違ったものでした。) 大学が要求するスコアは最低585なのでアウトです。数字としてはっきりダメと宣告された瞬間でした。正直、TOEFLは苦労するにしても最後にはクリア出来るだろうと思っていたのでショックでした。

 

留学する時期を遅らせるしかない・・・・

そんな気分にもなりましたが、どうしても諦めきれません。

 

何かいい方法はないかと考えていると、なぜか留学を希望する大学に相談してみようと思いました。基準を捻じ曲げても留学を許可してもらおうと思ったのです。

 

当時の私は淡白な性格だったので、それまで無理強いをしてまでどうにかしようということは一切考えたことがありませんでした。ダメと言われれば、そうですかとすぐに諦めてしまう、そんな人間でした。それが、英語でアメリカに電話をかけてまでどうにかしようと思ったのですから、私にとっては大きな事件でした。

 

そして、その夜電話をかけたのですが、結果は予想以上にあっけないものでした。事情をつげると、とりあえず入学願書を揃えて提出すれば、TOEFLのスコアの提出は少し遅れてもいいということでした。

 

留学ビザを取得するためには、大学から入学許可書を発行してもらわなければいけないのですが、とりあえずESLコースを最初に受けるという条件ですぐに発行してくれました。もちろん、秋までに基準点をクリアすれば、ESLコース受講の必要はありません。

 

あっさりしすぎて、悩んだ自分は何だったんだと大笑いでした。

 

今、考えてみるとこの経験は意義あるものでした。そのとき、私は英語で会話をするのが初めてだったのですが、必死になっていたせいか、何とかコミュニケーションをとることが出来ました。そして、それが自信につながりました。実際、この日から英語力が伸びていったので、いいきっかけになったと思います。

 

それから、自分の要望が受け入れられたということも大きかったです。相手からすれば当然だったのかもしれませんが、単純な性格の私は、アメリカ人は必死で助けを求めれば答えてくれるという、どこかの本で読んだことを真に受けました。(必死で助けをもとめれば、どこの国の人でも答えてくれますから、別に特別なことでもないのですが・・・)

 

勘違いかもしれませんが、そのおかげで留学してからも積極的に話すことが出来たので有意義な勘違いでした。こう振り返ってみると、たった1日の出来事でも、その後の人生に影響与えるようなことがあるんだなと実感しています。